地域で活躍する難民定住者

「家族とともに、日本で生きる」(アフガニスタン)

条約難民

母親 ~家族とともに、日本で生きる~

私たち家族5人は、以前私が留学生として日本に住んでいたことがあったため、混乱の中、アフガニスタンから脱 出して、 夫と子供3人 一緒に 2016年に難民認定の申請をして、2017年に認定を受けました。

私は日本が好きです。

その理由は、日本は安全で、女性が仕事や勉強、車の運転も出来て、一人で夜に出かけても危険はありません。

なにより、母国アフガニスタンと違い、 定められたルールをみんなが守っていることに安心を感じます。日本は大好きですが、日本の生活に困難がないわけではありません。

今は約4年間、夫とともにアパレル関係の会社で働いていますが、ここで働き始めるまでの仕事探しは本当に大変でした。たくさんの会社に応募しましたが、外見や日本語能力の低さから採用されませんでした。

日本では外国人が仕事を得るまで、求められる日本語レベルが高く、マナーも厳しいため、とても難しいです。

当時は生活が本当に大変でした。母国の大学から、帰国してアフガニスタンで母国のために働いてほしいと頼まれたこともありましたが、迷って、迷って、最後には子供たちの将来のことを考えて、帰国は選びませんでした。

どんなに大変でも、子供たちのため、そして夫と自分のためにも、平和で安全な日本で、もっともっと仕事を頑張って、自分たちの幸せをつかもうと決心しました。そのために、今でも仕事をしながら少ない機会を活用し、日本語の勉強は続けています。

日本の学校に行っている子供たちと比べると、私と夫の日本語は上手ではありませんので、 子供と言葉のすれ違いが度々起こります。

アフガニスタンで育った私と日本育ちの子供たちでは、考え方が違うと感じることがあります。

特に高校三年生の長男は日本の大学への進学を目指していて、将来の進路を決める大事な時ですが、長男からは「お母さんは日本語がわからないから」と相談を後回しにされたりして、少し落ち込むこともあります。でも、子供にはいつも励まされます。

長男の他にも、中学三年生の次男、小学六年生の長女も子供たち3 人は日本が大好きです。全員が当然のように日本に住み続け、 日本で就職することを考えています。

夫は昨年、働きながRHQ の夜間の定住支援プログラムのコースに参加しました。

歳を取ってから外国語を身に付けることは、とても難しいです。夫は努力家ですが、日本語がそれほど自由に話せるようにはなっていません。

今年は、私が働きながら、RHQ の定住支援プログラムに参加しています。

今のアパレルの仕事は、接客もあるので、求められる日本語のスキルが高く、日本人スタッフと同じように丁寧な言葉遣いと笑顔で対応することが必要です。

これまで 4年間 、店長が代わっても、変わらず私たち夫婦を受け入れて、感謝しています。

私たちは、職場に恩返しするためにも、毎日の仕事の中で、自身の能力を高めようと、真剣に頑張っています。努力することを諦めなければ、より良くなれると信じていますから。

 

長男 ~自分を見つめて、自分で考える~

私は、日本には来た時は、まだ5歳ぐらいでしたので、アフガニスタンの記憶は少ししかありません。

日本で大変だったというこということはあまり思いつかないけれど、 小学生の時に、周りと違うことで、ギャップを感じることはありました。例えば、家の中ではアフガニスタンの文化や宗教で生活していても、外へ出て学校へ行くと周りは全然違います。

自分の中で、家は家、学校は学校と分けて考えていたように思います。小学校の時は、偏見を持つ子からのイジメのようなことがありましたが、自分には友達が いて、一人ではなかったから乗り越えられました。

将来は、大学に進学して経営を学びたいと思っています。

きっかけは、高校2年生の時の進路説明会で大学の担当者から経営学部の話を聞いて興味を持ったのが最初でした。

将来は起業して社会の役に立つ た サービスを提供したいと思っています。

今はまだどんな分野のサービスで起業したいかまでは考えられていないから、これからはもっとしっか り勉強して世の中の知識を蓄えて、自分の夢を実現したいと思っています。