地域で活躍する難民定住者

「過去から現在を見つめて」チャン バン ジュオン(ベトナム)

インドシナ難民

1975年以降、 ボートピープルとして大勢の人々がベト ナム国から脱出しました。

1982年、 私もその中の一人として国から逃げました。 その夏に日本のタンカーに遭い、私たちのボートの40数人が助けられました。

そのままシンガ ポールに行き、数ヵ月滞在しました。

その後日本の長崎の 大村難民センターに入り、沖縄カトリックセンターで1年ほ ど暮らしました。ここで初めて仕事をしました。 最初はとてもうれしかったです。

仕事は現場がほとんどで、建築現場、サトウキビの収穫の畑仕事、 お墓の修理など、何でもしました。 昼間はこうして働き、夜は日本語の勉強を始めました。ひらがな、カタカナ、漢字は難しくなかなか覚えられませんでした。

1984年、東京都品川区内の国際救援センターで日本 語の勉強をすることができました。

センターを退所してから中央銘板という印刷の会社に10年間働きました。

この間夜間の中学校に進み、教師たちから励まされ東京都立鮫洲工業高等学校工業科へ進 みました。

先生たちはとても親切で丁寧な指導をしてくれました。 日本人の同級生とも仲良く勉強できました。そうしたことがすごくうれしかったです。

卒業後更に職業訓練学校に進み機械加工という仕事を覚えました。

お世話になった (株) 中央銘板を辞め、 何年間も勉強したことを発揮したいと考えたからです。

そのため斎藤金属工業という会社に就職、10年間で仕事のノウハウを学び、 2004年独立することにしました。

この時同じ会社に勤務していた事務職のOさんが私の独立に共感してくれてパートナーとして一緒に会社の立ち上げをすることになりました。

大洋メタルワーキング有限会社とういう会社です。 初めは機械購入資金がなく銀行からも貸してもらえな かったため私の妻の家族に借りました。

機械を2台購入 して仕事を始めたのですが、 外国人一人と女性一人の会社ではなかなか信頼を得るまでいかず苦労しました。

しかしOさんが営業を一手に引き受けてからは順調な操業になりました。現在はNC機械6台、 汎用機械2台の設備ができ、またこの8月、 大田区雑色にあった工場が手狭 になったので東京工業団地内に工場を持つことになり転居しました。

現在はベトナムから3人のエンジニアを雇っています。

ここに至るまでパートナーのOさんや私の妻が様々な苦労の時期を支えてくれたこと、そして妻の家族に感謝し ています。

また、(株)中央銘板の社長が学校へ快く行かせてくれたことなど多くの支援があって今日があります。

これからも頑張りたいとおもっています。

1984年国際救援センター退所(第7期生) ボートピープルとして来日 金属加工会社経営