地域で活躍する難民定住者

「念願の給食のおばさんになって」 ハン ソックアン(カンボジア)

インドシナ難民

1987年家族5人で日本に入国しました。

それまでタイの難民キャンプ暮らしでした。

大和定住促進センターで6ヵ月間日本語学習をしたあと、 伊勢原市に移り両親は働き始めました。

翌年私は小学校入学。外国人は私一人でした。桜の満開の下で記念写真を撮りました。

この頃母は弟妹を保育園に送り届けて父と同じ会社で仕事。私はいわゆる鍵っ子。 やはり寂しかったです。

4年生の時、県営住宅に入居することになったので転校しました。同時にいじめを受けました。

原因はよく覚えていませんが外国人というだけのことだったようにおもいます。

このことは両親は知りません。 悲しくて家に帰って鏡を見ながら「どうして自分の肌は黒いの?」って。 自分が日本人ではないことに気付いたのです。

しかし私はバレー部で頑張っていたので、バレーを通して乗り越えたとおもいます。

当時の仲間が支えになっていました。 今でも続いています。

両親について話しますと実は母は内戦中コレラに罹り、聴覚を失いました。

年齢が高くなるにつれて聞こえなくなっていたのです。

だから母と会話をしたことがありませ ん。

学校のこと、 友達のこと、食事のこと、何でもよいから母と話したかった。母に褒めてもらったり、愛情のこもった言葉を聞きたかった。

父は真面目な努力家です。大和定住促進センターで紹介されて以来、今でもその会社に勤めています。

心の中で両親には感謝しつつも私はカンボジアに好感がもてませんでした。

いじめられた苦い思い出 がそうさせたのかもしれません。

自分は文化も習慣も価値観も日本人同様だ、と感じていました。

しかしいつしかカンボジアに関心を持ち始めました。

そんな時期幼馴染みの主人と再会するという運命的な出会いを経験しました。

主人と結婚することが決まって私は 変りました。

日本とカンボジアの架け橋になりたいと思い始めました。

すべて日本語で生活していた私の生活は一変。主人からカンボジア語を習い、私は主人に日本語を教えています。

娘も授かり、両親の苦労を改めて知りました。

働く両親の背中を見て育った私は、子育てをしながらも仕事をすることを決めていました。

料理上手な母親の影響もあり、食に携わる仕事をしたいと思っていた矢先、給食調理の仕事の募集を市の広報で知り早速応募しました。

外国人だから、と半ば諦めていたところ採用になったのです。

子どもの頃からの憧れの仕事でした。

この仕事をしながらも子どもが楽しく暮らせる場作りや、カンボジアという国を日本の多くの人に伝えたいなど夢はふくらむ毎日です。

1988年大和定住促進センター退所(第59期生) タイ難民キャンプを経て来日 市職員